読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

jibun09の日記

「今見えているものはこう」というのを書きとめておける場所として、置いておこうと思います。

京都の銭湯の話

銭湯が好きだ。

 風呂なしアパートに住んでいた頃に頻繁に行くようになって、風呂付き物件に住んでいる今でもよく行く。仕事で疲れてもうだめだーという感じになった時に行くこともあれば、休みの日にふと「あ、今日銭湯行きたい」と思い立って夕方くらいに行くこともある。

以前と変わったのはサウナに入るようになったことだ。RHYMESERの曲に『ザ・サウナ』というのがあって、ここでは「男のガマン大会」というフレーズが出てくるのだけれど、僕にとってのサウナのイメージはまさにこれだった。たまにサウナの扉を開けても、「わざわざ暑苦しい部屋のガマン大会になんで参加せにゃならんのだ」という気持ちがむくむくと湧いてきて、1〜2分で出てくるというのが常だった。けれど、phaさんのこの記事を読んで「サウナもありかも」と思い、試してみたくなった。

www.gentosha.jp

曰く、「5分(サウナ)→1分(水風呂)→5分(休憩)」というのがスタンダードだそうだ。試してみると、確かに5分と決めたらまだ入っていられるし、水風呂は入った瞬間は冷たいけれど少しずつ慣れてくるし、休憩していると全身に血液が巡る感じが気持ち良いこともわかった。(休憩時の快感を「サウナトリップ」というらしい)そういうわけで、最近はサウナにも入るようになってちょっと楽しみが増えた。

京都の銭湯は430円で、「風呂に1回入るのには高い」という気もする。けれど、基本的に生活の一要素である風呂を、ちょっと非日常感も味わいながら楽しめると思うと安いくらいではないかという気がする。スーパー銭湯とかに行くと倍くらい値段するし。ライブや映画や演劇みたいな日常から思いきり離れたところの娯楽と、毎日自炊するような日常生活との間にあるのが銭湯、という感じがする。

昨日は小学生くらいのガキんちょ3人組がいたり、銭湯の店主が2〜3歳くらいの子を風呂に入れていたり、水風呂で「ヒュー気持ち良い〜!」と大声で叫ぶおっさんがいたりして、なんだか面白かった。(ちなみにこのおっさんは2リットルのペットボトルを持参して風呂で水を汲み、サウナと水風呂の往復の合間に飲んでいる猛者である)

京都は銭湯の多い街だと言われているけれど結構廃業するところも多いようで、この間ある銭湯に目星をつけて行ったら全然辿り着けなくて、よく調べると数ヶ月前に廃業していて更地になっていた。昨日行ったところは比較的若い夫婦が運営していて、親子での入浴イベントを開いたりwebページを作ったりしていて、僕を含む新参者でも入りやすい雰囲気で、けっこう活気がある感じがする。

玉の湯【京都の銭湯・お風呂屋】祇園・河原町に近い銭湯です!

こことは別に、もっと地元に密着した感じの銭湯もあってここも好きだ。飲み物の販売などの「サービス」っぽい要素がほとんどなくて、「風呂として必要最低限」という感じだけれどそれが良い。おばあちゃんの家の風呂に来たみたいな感じだ。けれど、経営している気のいい感じの兄弟は2人とももうおじいちゃんで、10年後もやっているのだろうか、とか考えてしまう。今後も残ってくれたら嬉しいなと思う。

www.kyo1010.com

 

あと、京都の銭湯を調べるならこのサイトがオススメです。今自分がいるエリアを元に地図上で場所を調べられたりして便利。

www.kyo1010.com

この本も素敵。脱衣所と風呂場を含めた間取り図のイラスト付き(マニアック)で、それぞれの銭湯のエピソードなんかも載っていて、銭湯に行きたくなります。

『君の名は。』を観てきた。

君の名は。』を観てきた。

友人と話していてたまたま話題にのぼり、お互い「ちょっと気になってた」という理由もあって、ちょうど1日で映画が安い日でもあったので、急遽観に行くことになった。(以下、ネタバレを含みます)

 

各所で「辻褄が合わない」「詰めが甘い」という評価をさんざん見ていたので、そのあたりは織り込み済みで見られたのはよかったかもしれない。そういう箇所があっても心の準備ができているので「ああここね」とか「いやいやいや」と内心思いながら、適度にスルーしながら観た。(一緒に観た友人はツッコミどころが多すぎて話に入り込めなかったらしい)

思ったよりもコテコテの恋愛物という感じがしなくて、いや筋書きは十分コテコテの恋愛物なのだけれど、これは恋愛映画というよりも「人が何かを覚えているというのはどういうことか」とか、そういうことが描かれている映画のような感じがした。

劇中では、隕石落下前の糸守、隕石落下の3年後の東京、さらに数年後の東京(瀧くんが大学生)が描かれているのだけれど、物語後半、糸守が隕石の落ちた場所だと分かったシーンあたりから瀧くんの記憶はどんどん曖昧になっていく。終盤の「知り合いがいたわけでもないのに、糸守のことを熱心に調べた記憶はある」という趣旨の台詞が象徴的なのだけれど、もう身体が入れ替わっていたことも、糸守を守るために奔走したことも、ほとんどのことを忘れてしまっている。けれど、断片的に記憶は残っている。 

この感じは自分の生活にも当てはまる気がして、つまり今過ごしている時間は現実として確かなものとして感じられるのだけれど、過去の記憶、例えば憧れていた上司とうまくいかなくなった記憶、もう別れてしまった恋人と部屋で寝転びながら話していた記憶、実家の猫が死んでしまったときの記憶、そういうものは確かに自分の中にあるにはあるのだけれど、断片的で、不確かなものだ。ものによっては数秒間の映像になっていたり、残っている写真を見返すことでや一枚の画像や音声の形で記憶されているけれど、今・ここで見ている景色に比べれば、随分ぼんやりとしている。どこまでが実際に起こったことで、どこからが自分の脚色が入っているのかなんて、今となってはわからない。現実と虚構の輪郭はぼんやりとしていて、「今思うと、こうあってほしかった」みたいな願望が一切混じっていないとも言い切れない。そういう記憶の断片断片が、日常生活のふとした場面でぱっと頭に浮かんでは消えたりして、その度に「ああ、こういうことがあった」とただ思い出したり、切ない気持ちになったりする。

なので、今僕がこうしてパソコンに向かってブログを書いている、のと同じくらいの「現実」感を持って見られるシーンは冒頭とラストに出てくる「数年後の東京」くらいだという気がする。それ以前の物語や場面は、あったようななかったような、確かにあったのかもしれないけれどどこからが現実でどこからが虚構なのかよくわからないような、そういう空間にあるもののように思えてくる。そう思うと、劇中のほとんどの時間がそういう「ぼんやりとした」空間にあるものに見える一方で、風景描写はものすごく緻密で、リアリティを持って迫ってくる。(隕石が落下してくる空や、神社の鳥居の背景の空が倍速で移り変わるシーンなど)なので、この映画を見ていて感じる切なさみたいなものは「物語の展開や設定からきている」というよりも、作画からきているのではないだろうか、とも思う。普通ならぼんやりとしか思い出せないような記憶、そういう曖昧な場所にある曖昧なものを、あれだけのリアリティをもった作画でガツンと見せつけられるというのはなかなかないことで、映像体験として新鮮で、気持ちがいい。その意味では「SF恋愛ストーリー」として観ると粗だらけなのだけれど、「普通ならぼんやりとしか記憶に残らないようなものを、ものすごく精密に目の前に現してみせた120分」として観るといいのかもしれない。

僕は新海誠の作品については詳しくなくて、もう何年も前に「秒速5センチメートル」を観たくらいだ。けれどほとんど内容を忘れていて、しかも唯一覚えているのは「なんか自分に酔ってる感じがすごい」という、観終わった後の印象だ。そういう感じは『君の名は。』にもあったし、そういう意味ではやっぱり入り込めない部分もあったけれど、ここに書いたようなことを言葉にしたくなる感じはあったので、観てよかったです。

この半月のこと

この半月でいろいろなことがあった。

いちど記事を書きかけて消したのだけれど、思いついたことを書こうと思う。

 

友人の結婚式。

親族を中心に開かれた会に呼んでもらった。開催場所は自宅、業者とかは一切挟まず、各々が食べたいものを持ち寄る形の結婚式は新鮮で、「縄文時代とかはみんなこうしていたはずだ」と言った人がいたけれど本当にそうだと思った。ちなみに翌週に同じ場所で友人を招いて開かれたパーティがあって、そこでは飲み食いし過ぎて2日後くらいまで食欲が戻らなくて辛かった。

 

くるりのコンサート。

ウイーンのオーケストラと組んで演奏される『NOW AND 弦』に行ってきた。『Philharmonic or die』を擦り切れるほど(擦り切れないけど)聴いていたので楽しみにしていた。終演後、しばらく言語感覚が麻痺して「すごい」しか言えなくなっていて、本当に素晴らしいコンサートだった。一緒に観に行った人と会えるのが楽しみだったというのもあるけれど、東京まで行って良かった。あと今回は長距離バスの昼の便を使ったけれど案外快適だった。wi-fiも電源も使えてすごい。

 

…と、いろいろあったことをもう少し書こうと思ったけれど思ったほど書いていて楽しくないのでこのあたりでやめておく。

最近、何か書こうという気があまり起こらないのだけれど、とりあえずここまで書いたので置いておきます。

茄子とコーヒー

久しぶりに書く気になった。

さっきまで西の空に出ていた半月がつい5分前は少し赤みがかって、今ではもう雲に隠れてしまった。窓から見える川の向こう岸にあるホテルの客室の明かりも少しずつ消えてきて、というかカーテンに隠れてきて、夜なんだなと思う。

今日は劇団ブルーエゴナクの公演『ラッパー』を観に行って、カレーうどんを食べて昼寝して、ちょっと買い物に出て人と会ってなすカレーをつくってワインを飲んでコーヒーを挽いて飲んでわりといい気分でいる。『ラッパー』については感想をまた書くかもしれない。

昨日はオムライスを作ろうとしてフライパンを触ってしまって手を火傷して、氷で冷やしている間に40代の人が書いてるブログを読みあさっていた。読んでいるうちに自分の仕事のことを考え出してしまって、ああ今だからこの感じでやれているだけで、40代になってもこんな感じでふらふらしていたら行き倒れてしまうんじゃないかみたいな気分にもなっていた。

けれど今はそういう感じは特になくて、もうなんだか「なるようになる」という気分のほうが前に出てきている。『ラッパー』にも出てきたいわゆる「臭い」フレーズだけどまあ、なんとかなるのではないかという気もする。

「受験に失敗したら人生棒にふる」とか、この「受験」を「就職」と読み替えてもいいし、「30を越えたら転職は厳しい」とか、そういう言い回しは確かにある程度の信憑性があるくらいには世間では筋が通っていて、確かにそうなんだろう。だとして、その「失敗した」とか「30を越えた」人が必ずしも悲惨な感じになっているかと言えば、確かにそういうケースもあるのかもしれないけれど、じゃあ「失敗しなかった」人が例外なく悲惨でない人生を送っているのかというとまあそうとも言い切れないわけで、そう思うともう何でもいいかという気にもなっている。アルコールが入っているからそう思うのかもしれないけれど。

とりあえず、茄子はもう少し火を通したほうが柔らかくなって旨いし自分で挽いたコーヒーは旨いということがわかって今日はそれで十分だなという気がする。

小説と生活

今日からまた休みだ。

高橋源一郎の『一億三千万人のための小説教室』を読んだ。最近何か書きたいという感じがあって、というよりも浮かんだり消えたりしていて、浮かんでいるときにはすごく確かなものとして感じられるけれど消えているときはほんとうに跡形もない。

「自分のことを書きなさい、ただし、ほんの少しだけ、楽しいウソをついて」

この一文にぐっときてしまって、この本に紹介されている本をまた読みたくなって図書館に行った。バクシーシ山下『セックス障害者たち』、石川啄木『ローマ字日記』、坂口安吾堕落論』、神蔵美子『たまもの』を借りてきて、『たまもの』を読んでいる。

ぐーっと集中して本を読んでいるときは、その本の文体が体に入ってきて、ページから目を離して自分の中に浮かぶ独り言がその本の文体になっていたりする。星野源のエッセイを読んでいるときは星野源のように、神蔵美子の感じはこうして書いているうちに薄れてしまっているけれど、読んだ直後はやっぱりその文体になっている。

ネットで注文していた箒が届いた。仕事帰りに受け取れるように帰り道の途中のコンビニを受け取り場所に指定して、けれど昨日はまだ届いていなくてさっき行ったらなぜかエラーになってヤマトに問い合わせた。結果的にコンビニ側の手違いだったことがわかったけれど、問い合わせ中微妙に自宅から離れたコンビニを指定してしまったがために変な空き時間ができてしまい、周辺をうろついていた。鴨川沿いの街並みがどうなっているかを見るのが楽しいので歩いていると、前の仕事で関わりのあった団体のオフィスが移転しているのを見つけて、ああここに移ったのかと思う。せっかく今住んでいるエリア近くには知り合いがない、と思っていたらきっとあの人もあの人も出入りしているんだろうなと、知ってはいるけれどめったに思い出さない人の顔を思い出す。それは嫌な感じではないのだけれど、喜んでそこを訪問しようとか、ひょっとしたら会えるのかもなという期待とは違っている。

そうしているうちになんとか箒を受け取れて、実家から送ってもらった扇風機も届いて、少し生活環境が整った感がある。箒だったり扇風機だったりは生活空間を過度に豊かにするというよりも最低限の部分で便利にするために必要なものだったというのが、届いて使ってみるととてもよくわかる。「インテリアに凝る」みたいな欲が働き出すとそういうのとはまた違う感じの方向に行くので、それも悪くないのだけれどまた別のものだということがよくわかる。

日が暮れてから、部屋で本を読むための灯りが必要だ。今のままだと少し暗くて、読もうという気があと一寸のところで阻まれる感じがある。電球一個つくだけで、この「一寸」はなくなるだろうと思うから、これは用意しようと思う。

あとはこれまで常温でバターケースに入れていたバターに黴が生えてしまっていることに昨日気がついて、これからは冷蔵庫に入れることにした。常温でもこれまで問題なかったし、知り合いが「常温で一年いけた」と言っていたのだけれどたぶん保管場所が悪かったのだと思う。

ゴミ箱を持ってしまうと移動する時かさばるのでなるべく置きたくなくて、酒屋でビールケースをもらってきてそこに袋をかけることにした。玄関周りが少しすっきりして良い感じだ。「移動する時」というのは次の引越しをイメージした時のことで、今の場所からすぐに引っ越すつもりはないのだけれど、今回の引越しで軽自動車満杯に荷物を積むことになってしまったので、できるだけかさが増えないようにしたいなとは思っている。

この休みの期間中、とりあえず決まっているのは明後日大学時代の友人と会うことくらいだ。10月に一緒にライブに行くことになって、この日は僕の持っているブルーレイディスクを貸すことになっている。

『たまもの』を読みながら、こうして本に篭っていたい、と思う。本の中に入り込んで、その文体に浸って、自分の中に言葉が出てくることを楽しめるような気がしている。生活環境がガラッと変わって、物を揃えたりしているとこういう感じに気がつくまでに時間がかかるのだな、ということがよくわかる。こういう感じになるくらいには、生活環境を整えないと始まらないのだなとも思う。

出勤の日

今日は久々の出勤だった。
うちの職場は夏季休暇が長い。ラジオから「お盆明けの出勤は辛い」というリスナーのコメントが流れてきていた時はまだ休みの途中で、自分にとっては今日がその日だ。
通勤のバスの中で「ああ自分は社会的な存在なのだなあ」と思い出す。休みの期間が長いと変わってしまうあるモードみたいなものがあって、通勤のバスが走って職場に近づくにつれて少しずつその「モード」がかさぶたみたいにぺりぺりと剥がれていく感じがする。それはどう考えても乗りたくない時間に乗りたくないバスに乗って早くも「帰りたい」と思っていながらでもバスに乗っているからで、その状況がすごく嫌だとは思わないけれどそのことでモードの変化を感じる。
なんだかんだで9月も休みが多い。今日は 何日かの休みの日が決まって、さてどうしようかと考えている。去年くらいであれば、休みだからどうしようという風にはあまり考えなくて、むしろその「モード」になれるだけの時間があるというか、「モード」として意識することもなく過ごしていられた。今日の感じからすると、「モード」は「モード」として意識されてしまっていて、いざ休みが多いとどうしていいかわからない。いっそ出勤させてくれという感じがよぎったりしていて、なんだかなと思う。働くことで得られること、それはお金であったり充実感みたいなものを欲しているのだなということを感じて、どういうわけか少し残念な気持ちになる。そういうものとは別の何か、それは「モード」を「モード」として意識しないような状態の時に起こるようなことがおもしろかったはずなのに、という過去の自分の体験に対するうらやましさから来ているような気がする。けれど今、休みを持て余す感じというのはやはりある。
しかしなんだか今日は疲れていて、たいした仕事をしたわけでもないのにもう眠い。昼間もお昼を食べる前から眠くて、なんだか気合いも入らない。早く帰ったから本でも読んで何か書くかと思ったけど、さっきうたた寝して目が覚めてこれを書いている。

夫婦と両親

「はじめまして」

30歳前後の女性が席から立ち上がった。

彼女はたった今喫茶店に入ってきた還暦くらいの男女の方を向いておじぎしている。2人の後ろには、同じく30歳前後の男性がいて、4人は席についた。女性が自分の名前を名乗っている。

一瞬、これはどんな状況だろうかと思ったのだけれど、きっと、確証はないけれどきっと30歳前後の2人は結婚前かなにかで、還暦の男女2人は男性の両親なのだろうと思う。ほかにこの年齢差の男女4人組で、若い女性が還暦の2人にだけ初対面の挨拶をする状況というのが思いつかない。

女性はとても緊張した様子で、ずっと手を膝の上に置いて背筋を伸ばしている。両親の方は比較的リラックスした様子で、父親が特に嬉しそうだ。父親は白髪で、けれど短パンとポロシャツを着た若々しい印象で、貫禄と親しみやすさのようなものがにじみ出ている感じだ。母親のほうはフィリピン系なのか、東南アジアの雰囲気のする顔立ちで、あまり話さないけれどやはり嬉しそうだ。男性のほうは席の角度から表情は見えない。けれどこの状況なら彼だけがその場にいる全員と顔見知りで、比較的落ち着いている方なのだろう。

「結婚相手の両親に初めて会う妻」と「息子の結婚相手に初めて会う両親」の瞬間の表情というのを初めて見た。

女性の緊張しているけれど嬉しそうな雰囲気と、両親のおだやかでやっぱり嬉しそうな雰囲気が、なんだかすごくよくて、見ていてじーんときてしまった。うらやましいな、とも思った。

同じ世代の友人たちはどんどん結婚していて、もちろん結婚していない人もいるのだけれど「結婚した」という情報はいろんなルートから耳に入ってくるから、その都度「ああ結婚したのか」と思う。その「ああ」という感じが重なれば重なるほど「みんなどんどん結婚していく」という感じが強まる。Facebookのタイムラインには、最近結婚に加えて子どもと一緒に写った写真をアップする友人が増えてきた。

「うらやましいな」とも思う一方で、結婚していった友人知人の中には早々に離婚した夫婦もいたり、Twitterのつぶやきが明らかに家庭生活がしんどそうだったりしている人もいて、現実にはいろいろあんだよな、と思う。

友人の中のある一人から、結婚した最終的な決め手として「親に喜んでほしかった」というのがあったと聞いた。それを聞いたときはまじかよ、と思ったのだけれど本当らしい。本当にこの人でいいのだろうか、と迷っていたのだけれど、最終的に決め手になったのは親のことらしい。

その話を聞いたときはぜんぜんわからなかったけど、今日見かけた夫婦の両親の顔を見ていたら、確かにそういうのもあり得るのかもしれないな、と思った。実際に自分がそれを決め手にするとは思えないけれど、あの4人の空間は独特だったし、ほかではなかなか見られないものだよな、と思う。