jibun09の日記

長々とした日記を書いています

近況

Spotifyがものすごく便利。格安sim生活なのでPCへのダウンロードを後回しにしていたのだけど、昨日スタバのwifiでダウンロードを完了した。PC版だとアルバム順に再生できるからもう普通に聴けてしまう。ララランドのサントラにSeiho、電気グルーヴ土岐麻子にBiSに、すごいことになっている。

 

ララランド、この間3月1日に見に行った。ネット上では賛否両論いろいろ言われていて、僕としては観てよかった。またちゃんと感想を書きたい。

 

昨日はバレンタインに職場の女性陣からまとめてもらったチョコのお返しをどうしようか悩んで、なんだか動けない感じになっていた。同僚の男性(同じ部署では超少数)に相談したりしたのだけれど、結局上司が音頭をとって男性陣からもまとめて返すことになり、悩む要素がなくなった。なんだか、悩んだわりにあっさりと解決した。

 

そういえばテレビが家にやってきた。ずっとこの1年、テレビなくても問題ないなと思っていたのだけれど、カルテットとか、ねぽりんぱぽりんとか、タラレバとか、観たいなあと思う番組が目につくようになってきて、Twitterでつぶやいたら友達からもらえることになった。いざ届いてみると録画機能がないところはちょっと物足りなくて、だから目当ての番組があるときはテレビの前に時間を合わせて鎮座しないといけない。実家のテレビとかだと録画して都合のいい時間に観ることが当たり前だから、ちょっと珍しい体験だと思う。

 

Perfumeがドラマをやるらしい。しかも脚本は木皿泉だ。朝からTwitterで速報を見て声を上げてしまった。あの3人がドラマをやるということももちろん驚きなのだけれど、なんせ木皿泉だ。数年前に友達から教えてもらった「すいか」がすごく好きだった。ほかの作品も機会があれば見てみたいのだけれど、とにかく驚いた。これこそ放映1日目に予定が入るかもしれず、録画して観たい。HDDほしい。

 

物欲というのには波があるなあと最近思っていて、このところ再熱している。テレビ、HDDに続いて、あとスピーカー。今の格安スマホは音質が良くない。あとホットサンドメーカー。朝ごはんにしばらく食パンを買っていたけれど、寒くなってから食べる気がしなくなっていた。フライパンで炙って食べてもいいのだけれど、あまり美味しくない。でもそのくらいか。あとはネット環境を整えたい気もしている。格安simだけの生活もそこまで不自由してないけれど、やっぱりドラマとか映画の配信を観ようと思うと安定した速度で上限のない環境にしたいなとか思う。

 

あとは最近人によく会っている。あまり詳しくは書かないけれど、新しく会う人が多い。僕は多分、自分で言うのも変だけれどある程度相手を気持ち良くさせる話し方と話の聴き方みたいなのを心得ていて、それがそこそこできてしまう(仕事柄も影響していると思う)。だから大抵相手は嫌な顔はしないし、好印象が残るのだろうと思う。帰り道に「独りよがり」という言葉について考えていて、確かにこうして人に会うのは楽しいけれど独りよがりになれる時間がほしいなと思いながら帰ったのだった。書いているときは独りよがりになれる。

 

しばらくこのブログを更新していない間に、気になる女の子に会いにわざわざ東京まで行ったけど何もなかったとか、大学の同期の結婚式で昔の彼女と再会して一緒に帰って何とも言えない気持ちになったとか、いろいろなことがあった。こういうことをフィクションかどうかの境目みたいな感じで書けたら楽しいだろうなと思う。けれどけっこう勇気がいるよなあと思いながら、ちょっと小出しにしてみた。

 

早く春になってほしい。

夜を使いはたして

夜を使いはたして feat. PUNPEE -STUTS - Pushin' Release Party - YouTube

最近というか昨日の晩からこればっかり聴いている。

同じ曲を何回も何回もリピートすることはこれまでにもあって、NujabesのLuv(sic)Part4やtofubeatsの水星がそうだった。iTunesの再生時間がこの辺の曲だけ桁が違う。 

たぶんループするドラムの感じの心地よさとボーカルの癖みたいなのにハマるとずっと聞いていてしまうのだと思う。

この曲はタイトル通りやっぱり夜中に聴くのがよくて、昨日は家でチューハイ飲みながらずっとかけていた。 

今夜から車で大学の友人と横浜に行く予定で、なんかどうしても気分が乗らなくて鬱々としていたのだけれどこの曲聞きながら夕方外に出たらなんか楽しくなってしまった。街に出て前から手に入れようと思っていたニットキャップを買って、カフェに来てコーヒー飲んでる。

ぼくには人に会いたい周期というのがとうやらあるみたいで、この一年くらいは会いたい周期だった。けれど最近もうなんか篭りたいというか、昔のつながりで顔を合わせたりするのが煩わしくなってきて、だから今夜の集まりもちょっと気が重かった。

横浜で合流予定のメンバーは結婚してたり子どもがいたりして、学生時代はあんまり深く付き合わなかった顔ぶれで、今さら会って何話せばいいんだよ、と思っていた(今でもちょっと思っている)。

そもそも車で横浜なんて事故ったらやだなとかそういうことも思うけどまあそういうのも含めて楽しむかという感じになったのはこの曲聴いたからだと思う。

夜を使いはたして適当に遊んでいきましょう。

案とヒントとかブンブンうなるベースとか、クラシックで最高。

 

友人が次々と結婚していく。

ついこの間までは、主に女の子の結婚ラッシュだった。大学を出てすぐの頃と、一昨年から去年にかけてがそうだった。

けれど今年は男だ。しかも学生時代から一番ゲスい話しかしていなかったような仲間連中が次々と結婚していく。

だいたいそのメンバーはぼくを入れて5人くらいで、みんな30前後なのでまあ考える年代といえば年代なのかもしれない。2年くらい前に会ったときは「結婚はまあまだ先かな〜」的な雰囲気はなんとなく共有していたのだけれど、その場所が丸ごとなくなってしまったような感じだ。この2年はお互いなんとなく連絡を取り合っていなくて、その間に同棲したり付き合ったり各自色々と話が進んでいたらしい。

ぼくはどちらかと言うと結婚はまだ先かなと思っていて、けれどこうも周りが結婚していくとさすがに羨ましいなあ、いいなあという感じがする。でもこれは流行りのゲームをプレイできていいなあ、自分も輪に入りたいなあとか、そういう感じに近いのかもしれない。

今月結婚した友だちの二次会の幹事をやって、岡村靖幸の『結婚への道』を紛れ込ませたのだけれど、これは自分で読みたかったやつだ。

結婚ってなんなんだろうか。結婚式前後も実は関係が不穏で式から数ヶ月後に離婚した友だちもいるし、何年も一緒に住んでもう籍を入れたとか式をあげたとか関係なく一緒に生きている友だちが今さら自宅で結婚式をしたりしていた。

「結婚」という何か大きなものが自分の外にあるうちは、それを持ってる人を羨ましく思ったり自分も欲しいなあと思ったりするのだろうなと思う。その延長で「結婚」を手に入れようとすると何か間違えそうな気がするので、いいなあ羨ましいなあと思いながら、自分は自分のペースでやれたらなと思う。

 

カレーの季節が終わった。

久々に今日、カレーをつくった。のだけれど、前より食べたい感じがしない。きっとカレーの季節は終わったのだと思う。

前に、知り合いが「内蔵を冷やす食べ物と温める食べ物がある」と言っていて、当たり前といえば当たり前なのだけれど、どうやら野菜の種類によっても違うらしい。

僕はそれらの違いはあまり知らないけれど、今朝すごく身体が冷えている感じがして、つくりおきの味噌汁を食べるとずいぶん落ち着いた。けれどもう少し何か食べたくなって冷蔵庫にあったヨーグルトとバナナを食べたら一気に体が冷えて後悔してしまった。

まあこれは単純に食材の温度の問題な気もするけれど、カレーは不思議だ。だってカレー自体は温かいし食べれば汗もかく。けれど、なんかこう内側から温まる感じがしない。どちらかというと首から上が熱くなる感じだ。なので食べ終わった今、相対的にお腹は冷えている感じすらする。

思い出すのは、去年の夏の友人から聞いた話で、クーラーのない部屋で男二人ウォッカを開けるとまあ身体が熱くて飲めたもんじゃなくて、逆に泡盛とかはすーっと汗が引いた感じがしたんだそうだ。曰く「さすが、暑い国で生まれた酒だけのことはある」と。なので、やっぱりインド辺りが本場のスパイス料理はやっぱり夏のものなんだろう。

この夏はカレーで乗り切ったと言っても過言ではなくて、本当の意味でNo Curry, No Lifeだった。カレー作らなかったら何を食って夏を越したんだろうか。そのくらい連日食べていた。

秋から冬にかけて、カレーに代わるメニューを見つけないといけない。調理の手順をいちいち確認しなくてよくて、出来上がれば確実に美味しいもの。やっぱり鍋とかか。それか、いい味噌を買って味噌汁にするか。

今日のカレーがあと一食分残っているので、明日で今年の夏がようやく終わります。

京都の銭湯の話

銭湯が好きだ。

 風呂なしアパートに住んでいた頃に頻繁に行くようになって、風呂付き物件に住んでいる今でもよく行く。仕事で疲れてもうだめだーという感じになった時に行くこともあれば、休みの日にふと「あ、今日銭湯行きたい」と思い立って夕方くらいに行くこともある。

以前と変わったのはサウナに入るようになったことだ。RHYMESERの曲に『ザ・サウナ』というのがあって、ここでは「男のガマン大会」というフレーズが出てくるのだけれど、僕にとってのサウナのイメージはまさにこれだった。たまにサウナの扉を開けても、「わざわざ暑苦しい部屋のガマン大会になんで参加せにゃならんのだ」という気持ちがむくむくと湧いてきて、1〜2分で出てくるというのが常だった。けれど、phaさんのこの記事を読んで「サウナもありかも」と思い、試してみたくなった。

www.gentosha.jp

曰く、「5分(サウナ)→1分(水風呂)→5分(休憩)」というのがスタンダードだそうだ。試してみると、確かに5分と決めたらまだ入っていられるし、水風呂は入った瞬間は冷たいけれど少しずつ慣れてくるし、休憩していると全身に血液が巡る感じが気持ち良いこともわかった。(休憩時の快感を「サウナトリップ」というらしい)そういうわけで、最近はサウナにも入るようになってちょっと楽しみが増えた。

京都の銭湯は430円で、「風呂に1回入るのには高い」という気もする。けれど、基本的に生活の一要素である風呂を、ちょっと非日常感も味わいながら楽しめると思うと安いくらいではないかという気がする。スーパー銭湯とかに行くと倍くらい値段するし。ライブや映画や演劇みたいな日常から思いきり離れたところの娯楽と、毎日自炊するような日常生活との間にあるのが銭湯、という感じがする。

昨日は小学生くらいのガキんちょ3人組がいたり、銭湯の店主が2〜3歳くらいの子を風呂に入れていたり、水風呂で「ヒュー気持ち良い〜!」と大声で叫ぶおっさんがいたりして、なんだか面白かった。(ちなみにこのおっさんは2リットルのペットボトルを持参して風呂で水を汲み、サウナと水風呂の往復の合間に飲んでいる猛者である)

京都は銭湯の多い街だと言われているけれど結構廃業するところも多いようで、この間ある銭湯に目星をつけて行ったら全然辿り着けなくて、よく調べると数ヶ月前に廃業していて更地になっていた。昨日行ったところは比較的若い夫婦が運営していて、親子での入浴イベントを開いたりwebページを作ったりしていて、僕を含む新参者でも入りやすい雰囲気で、けっこう活気がある感じがする。

玉の湯【京都の銭湯・お風呂屋】祇園・河原町に近い銭湯です!

こことは別に、もっと地元に密着した感じの銭湯もあってここも好きだ。飲み物の販売などの「サービス」っぽい要素がほとんどなくて、「風呂として必要最低限」という感じだけれどそれが良い。おばあちゃんの家の風呂に来たみたいな感じだ。けれど、経営している気のいい感じの兄弟は2人とももうおじいちゃんで、10年後もやっているのだろうか、とか考えてしまう。今後も残ってくれたら嬉しいなと思う。

www.kyo1010.com

 

あと、京都の銭湯を調べるならこのサイトがオススメです。今自分がいるエリアを元に地図上で場所を調べられたりして便利。

www.kyo1010.com

この本も素敵。脱衣所と風呂場を含めた間取り図のイラスト付き(マニアック)で、それぞれの銭湯のエピソードなんかも載っていて、銭湯に行きたくなります。

『君の名は。』を観てきた。

君の名は。』を観てきた。

友人と話していてたまたま話題にのぼり、お互い「ちょっと気になってた」という理由もあって、ちょうど1日で映画が安い日でもあったので、急遽観に行くことになった。(以下、ネタバレを含みます)

 

各所で「辻褄が合わない」「詰めが甘い」という評価をさんざん見ていたので、そのあたりは織り込み済みで見られたのはよかったかもしれない。そういう箇所があっても心の準備ができているので「ああここね」とか「いやいやいや」と内心思いながら、適度にスルーしながら観た。(一緒に観た友人はツッコミどころが多すぎて話に入り込めなかったらしい)

思ったよりもコテコテの恋愛物という感じがしなくて、いや筋書きは十分コテコテの恋愛物なのだけれど、これは恋愛映画というよりも「人が何かを覚えているというのはどういうことか」とか、そういうことが描かれている映画のような感じがした。

劇中では、隕石落下前の糸守、隕石落下の3年後の東京、さらに数年後の東京(瀧くんが大学生)が描かれているのだけれど、物語後半、糸守が隕石の落ちた場所だと分かったシーンあたりから瀧くんの記憶はどんどん曖昧になっていく。終盤の「知り合いがいたわけでもないのに、糸守のことを熱心に調べた記憶はある」という趣旨の台詞が象徴的なのだけれど、もう身体が入れ替わっていたことも、糸守を守るために奔走したことも、ほとんどのことを忘れてしまっている。けれど、断片的に記憶は残っている。 

この感じは自分の生活にも当てはまる気がして、つまり今過ごしている時間は現実として確かなものとして感じられるのだけれど、過去の記憶、例えば憧れていた上司とうまくいかなくなった記憶、もう別れてしまった恋人と部屋で寝転びながら話していた記憶、実家の猫が死んでしまったときの記憶、そういうものは確かに自分の中にあるにはあるのだけれど、断片的で、不確かなものだ。ものによっては数秒間の映像になっていたり、残っている写真を見返すことでや一枚の画像や音声の形で記憶されているけれど、今・ここで見ている景色に比べれば、随分ぼんやりとしている。どこまでが実際に起こったことで、どこからが自分の脚色が入っているのかなんて、今となってはわからない。現実と虚構の輪郭はぼんやりとしていて、「今思うと、こうあってほしかった」みたいな願望が一切混じっていないとも言い切れない。そういう記憶の断片断片が、日常生活のふとした場面でぱっと頭に浮かんでは消えたりして、その度に「ああ、こういうことがあった」とただ思い出したり、切ない気持ちになったりする。

なので、今僕がこうしてパソコンに向かってブログを書いている、のと同じくらいの「現実」感を持って見られるシーンは冒頭とラストに出てくる「数年後の東京」くらいだという気がする。それ以前の物語や場面は、あったようななかったような、確かにあったのかもしれないけれどどこからが現実でどこからが虚構なのかよくわからないような、そういう空間にあるもののように思えてくる。そう思うと、劇中のほとんどの時間がそういう「ぼんやりとした」空間にあるものに見える一方で、風景描写はものすごく緻密で、リアリティを持って迫ってくる。(隕石が落下してくる空や、神社の鳥居の背景の空が倍速で移り変わるシーンなど)なので、この映画を見ていて感じる切なさみたいなものは「物語の展開や設定からきている」というよりも、作画からきているのではないだろうか、とも思う。普通ならぼんやりとしか思い出せないような記憶、そういう曖昧な場所にある曖昧なものを、あれだけのリアリティをもった作画でガツンと見せつけられるというのはなかなかないことで、映像体験として新鮮で、気持ちがいい。その意味では「SF恋愛ストーリー」として観ると粗だらけなのだけれど、「普通ならぼんやりとしか記憶に残らないようなものを、ものすごく精密に目の前に現してみせた120分」として観るといいのかもしれない。

僕は新海誠の作品については詳しくなくて、もう何年も前に「秒速5センチメートル」を観たくらいだ。けれどほとんど内容を忘れていて、しかも唯一覚えているのは「なんか自分に酔ってる感じがすごい」という、観終わった後の印象だ。そういう感じは『君の名は。』にもあったし、そういう意味ではやっぱり入り込めない部分もあったけれど、ここに書いたようなことを言葉にしたくなる感じはあったので、観てよかったです。