読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

jibun09の日記

「今見えているものはこう」というのを書きとめておける場所として、置いておこうと思います。

『君の名は。』を観てきた。

君の名は。』を観てきた。

友人と話していてたまたま話題にのぼり、お互い「ちょっと気になってた」という理由もあって、ちょうど1日で映画が安い日でもあったので、急遽観に行くことになった。(以下、ネタバレを含みます)

 

各所で「辻褄が合わない」「詰めが甘い」という評価をさんざん見ていたので、そのあたりは織り込み済みで見られたのはよかったかもしれない。そういう箇所があっても心の準備ができているので「ああここね」とか「いやいやいや」と内心思いながら、適度にスルーしながら観た。(一緒に観た友人はツッコミどころが多すぎて話に入り込めなかったらしい)

思ったよりもコテコテの恋愛物という感じがしなくて、いや筋書きは十分コテコテの恋愛物なのだけれど、これは恋愛映画というよりも「人が何かを覚えているというのはどういうことか」とか、そういうことが描かれている映画のような感じがした。

劇中では、隕石落下前の糸守、隕石落下の3年後の東京、さらに数年後の東京(瀧くんが大学生)が描かれているのだけれど、物語後半、糸守が隕石の落ちた場所だと分かったシーンあたりから瀧くんの記憶はどんどん曖昧になっていく。終盤の「知り合いがいたわけでもないのに、糸守のことを熱心に調べた記憶はある」という趣旨の台詞が象徴的なのだけれど、もう身体が入れ替わっていたことも、糸守を守るために奔走したことも、ほとんどのことを忘れてしまっている。けれど、断片的に記憶は残っている。 

この感じは自分の生活にも当てはまる気がして、つまり今過ごしている時間は現実として確かなものとして感じられるのだけれど、過去の記憶、例えば憧れていた上司とうまくいかなくなった記憶、もう別れてしまった恋人と部屋で寝転びながら話していた記憶、実家の猫が死んでしまったときの記憶、そういうものは確かに自分の中にあるにはあるのだけれど、断片的で、不確かなものだ。ものによっては数秒間の映像になっていたり、残っている写真を見返すことでや一枚の画像や音声の形で記憶されているけれど、今・ここで見ている景色に比べれば、随分ぼんやりとしている。どこまでが実際に起こったことで、どこからが自分の脚色が入っているのかなんて、今となってはわからない。現実と虚構の輪郭はぼんやりとしていて、「今思うと、こうあってほしかった」みたいな願望が一切混じっていないとも言い切れない。そういう記憶の断片断片が、日常生活のふとした場面でぱっと頭に浮かんでは消えたりして、その度に「ああ、こういうことがあった」とただ思い出したり、切ない気持ちになったりする。

なので、今僕がこうしてパソコンに向かってブログを書いている、のと同じくらいの「現実」感を持って見られるシーンは冒頭とラストに出てくる「数年後の東京」くらいだという気がする。それ以前の物語や場面は、あったようななかったような、確かにあったのかもしれないけれどどこからが現実でどこからが虚構なのかよくわからないような、そういう空間にあるもののように思えてくる。そう思うと、劇中のほとんどの時間がそういう「ぼんやりとした」空間にあるものに見える一方で、風景描写はものすごく緻密で、リアリティを持って迫ってくる。(隕石が落下してくる空や、神社の鳥居の背景の空が倍速で移り変わるシーンなど)なので、この映画を見ていて感じる切なさみたいなものは「物語の展開や設定からきている」というよりも、作画からきているのではないだろうか、とも思う。普通ならぼんやりとしか思い出せないような記憶、そういう曖昧な場所にある曖昧なものを、あれだけのリアリティをもった作画でガツンと見せつけられるというのはなかなかないことで、映像体験として新鮮で、気持ちがいい。その意味では「SF恋愛ストーリー」として観ると粗だらけなのだけれど、「普通ならぼんやりとしか記憶に残らないようなものを、ものすごく精密に目の前に現してみせた120分」として観るといいのかもしれない。

僕は新海誠の作品については詳しくなくて、もう何年も前に「秒速5センチメートル」を観たくらいだ。けれどほとんど内容を忘れていて、しかも唯一覚えているのは「なんか自分に酔ってる感じがすごい」という、観終わった後の印象だ。そういう感じは『君の名は。』にもあったし、そういう意味ではやっぱり入り込めない部分もあったけれど、ここに書いたようなことを言葉にしたくなる感じはあったので、観てよかったです。