夫婦と両親
「はじめまして」
30歳前後の女性が席から立ち上がった。
彼女はたった今喫茶店に入ってきた還暦くらいの男女の方を向いておじぎしている。2人の後ろには、同じく30歳前後の男性がいて、4人は席についた。女性が自分の名前を名乗っている。
一瞬、これはどんな状況だろうかと思ったのだけれど、きっと、確証はないけれどきっと30歳前後の2人は結婚前かなにかで、還暦の男女2人は男性の両親なのだろうと思う。ほかにこの年齢差の男女4人組で、若い女性が還暦の2人にだけ初対面の挨拶をする状況というのが思いつかない。
女性はとても緊張した様子で、ずっと手を膝の上に置いて背筋を伸ばしている。両親の方は比較的リラックスした様子で、父親が特に嬉しそうだ。父親は白髪で、けれど短パンとポロシャツを着た若々しい印象で、貫禄と親しみやすさのようなものがにじみ出ている感じだ。母親のほうはフィリピン系なのか、東南アジアの雰囲気のする顔立ちで、あまり話さないけれどやはり嬉しそうだ。男性のほうは席の角度から表情は見えない。けれどこの状況なら彼だけがその場にいる全員と顔見知りで、比較的落ち着いている方なのだろう。
「結婚相手の両親に初めて会う妻」と「息子の結婚相手に初めて会う両親」の瞬間の表情というのを初めて見た。
女性の緊張しているけれど嬉しそうな雰囲気と、両親のおだやかでやっぱり嬉しそうな雰囲気が、なんだかすごくよくて、見ていてじーんときてしまった。うらやましいな、とも思った。
同じ世代の友人たちはどんどん結婚していて、もちろん結婚していない人もいるのだけれど「結婚した」という情報はいろんなルートから耳に入ってくるから、その都度「ああ結婚したのか」と思う。その「ああ」という感じが重なれば重なるほど「みんなどんどん結婚していく」という感じが強まる。Facebookのタイムラインには、最近結婚に加えて子どもと一緒に写った写真をアップする友人が増えてきた。
「うらやましいな」とも思う一方で、結婚していった友人知人の中には早々に離婚した夫婦もいたり、Twitterのつぶやきが明らかに家庭生活がしんどそうだったりしている人もいて、現実にはいろいろあんだよな、と思う。
友人の中のある一人から、結婚した最終的な決め手として「親に喜んでほしかった」というのがあったと聞いた。それを聞いたときはまじかよ、と思ったのだけれど本当らしい。本当にこの人でいいのだろうか、と迷っていたのだけれど、最終的に決め手になったのは親のことらしい。
その話を聞いたときはぜんぜんわからなかったけど、今日見かけた夫婦の両親の顔を見ていたら、確かにそういうのもあり得るのかもしれないな、と思った。実際に自分がそれを決め手にするとは思えないけれど、あの4人の空間は独特だったし、ほかではなかなか見られないものだよな、と思う。
引っ越してみて
今日の夜
今日はいろいろと節目というか楽しかった。
わりとおっきい仕事がひと段落して、職場の人とメキシコ料理食べて、そのあとバーを二軒はしごしていま帰ってきて、別にそのまま寝たらいいのにわざわざこれを書いている。
バーに行けたのがよかったな。一緒に行った同僚の人にいろいろ教えてもらって、葉巻のことや音楽のこと、京都のカルチャーのこと、楽しいことはたくさんあって、それを幾つになっても楽しめること、それが素敵でうらやましくて、嬉しくなって結局いまの時間まで街を闊歩していた。
2年3年前に自分がこんな時間を過ごしていることは思いもよらなくて、でも2年や3年前に体験したことや考えたことが自分の意思とは別のところでどうしてもつながっていたりしていて、それをすごく実感するような時間だった。
「京都に30年も住んでたらね、いろいろありますよ」というのは今日いろいろ連れて行ってくれた同僚の人の言葉で、最近年を重ねるというのはいいことなのかもしれないみたいなことをぼんやりと考えていたタイミングでもあったので、とてもよかった。
30年弱しか生きてないけれど、最近年を重ねることの楽しみみたいなのはあるかもしれないと思っていて、具体的に書くのが面倒だなという気分もあるので細かくは書かないけれど確かにそういう感じがあって、今日の夜はそれを象徴するような夜だった。
半分酔っ払って書いているようなこんな文章を誰が面白がって読むんだろうという気もしているけれど、こういうところで通じる人がいるんじゃないかという微かな実感みたいなものがあるから書いているという事情もあって、別にものすごくたくさんの人に共感してもらうための文章を書いているのではなく、自分が感じた些細なことを書くことで共鳴したりする人がほんの数人でもいるかもしれないということが動機になって書いている部分というのがある。
日本語は支離滅裂で読みやすい文章なんてあったもんじゃないけれど、この場の勢いみたいなもので書き残したものがあとで読み返した時に「いまのこの感じ」を真空パックするようなことになるんじゃないかという希望というか期待がある。
コンビニで買ったカフェオレもなくなったし、歯を磨いて寝ることにしようと思います。
ねこシッター
今日は友人が帰省するというので、ねこシッターをしています。
昨日の夜に着いて、ごはんあげて、今日の朝起きて、ごはんあげて、さっき晩ごはんをあげて、明日の朝ごはんをあげて、そのまま仕事に行く。あとはトイレと水の世話を。
ねこシッターといっても昼間はとくにすることがないので、基本的には家の中にいて、見逃していた『フリースタイルダンジョン』をネットで観たりおススメされていた『北の国から』を観たり、保坂和志の小説を読んだり昼寝したりしていた。庭のミントを拝借してモヒートをつくろうと思ってレモンの買い出しに行った帰りに金麦を飲みながら帰ってきて、いまさっきトマトパスタをつくってシャワー浴びてブログを書いている。
やっぱりネットが普通に使えるというのはいいな。自分の家では格安simの速度制限をちまちま解除しながら使っていて、いまみたいにradikoでFM802を聞きながらだらだらとブログを書くみたいなこともちょっとやりにくい。ラジオからはフジロックのライブ音源が流れていて、Homecomingsが唄っている。
机と椅子があるというのもいいな。家には低いテーブルしかなくて座布団を敷いて座っているのだけれど、やっぱり椅子に座って何かしたい場面というのはあって、というかなんだか落ち着かないとき椅子があって座ってみるとどこかしっくりくる感じというのはあって、やっぱり椅子がほしい。
さっきつくったパスタはトマト缶を使っていて、いつもは缶の半分しか使わないのだけれど今日は余らせても困るのでまるまる一缶使ったらやっぱり多くて、ちょっと食べ過ぎた感がある。微妙に皿に残してしまったトマトソースは、つまみに買ってきたポテチにつけて食べるとよいのでは、と考えているけれどいざ食べるとポテチだけで食べたほうがうまい、という結論になるのではないかという予感をうっすら持ちながら、この後試すことになるのだと思う。
『シン・ゴジラ』を観てから特撮熱が高まっているというか関連作品を観たくなっていて、ぜんぜん活用してないAmazonプライムをさっき観たらゴジラはないけどガメラシリーズはけっこうあって、「京都駅がぐちゃぐちゃになるあれが観たい」と思ってガメラ2を探したら京都駅がぐちゃぐちゃになるのは3だった。イリスが出てくるあれだ。2の予告を観たら2を観たくなって、京都駅は出てこないことに気づいたけどこのあとたぶん2を観るとおもう。3は前田愛がイリスに取り込まれるシーンがものすごく印象深くて、子供のころ観ながらドキドキしていた。そこのシーンばかり覚えていて、京都駅のシーンが霞んでいた。2はほとんど覚えていなくて、やっぱり2を観ると思う。
モヒート飲みながら観よう。
いろいろあって片想い
気がついたら一週間くらい何も書いていなかった。厳密にいうと「あー最近なにも書いてないなあ」と前から気づいてはいたけど、とにかく久しぶりに書く。
この間にいろいろなことがあって、自転車買ったりDJ機器を売り払ったり布団が雨に濡れたりゴジラ観たり、でもひとつひとつ書く感じでもなくて、こうして書くことでとりあえず今に着地している。
昨日はほんとうに久々に仕事でヘマをして凹んで、けっこうダメージを受けていてぐったりしていた。ふらふらになって帰ってきて、今日はもうダメだ、ごはんつくれないと思って王将に入ってやたら量の多い定食を頼んでちょっと残してしまって、倒れこむように家に帰ってきて寝落ちした。今日はそのヘマの件はちょっと落ちついて、精神的にもちょっと落ちついて持ち直した感がある。昨日の今頃はなんかもう絶望的な気分になっていたけど、1日経てば状況は変わるものだ。ああそうだ、土曜日は携帯も変えたんだった。友人と共同で借りていたアパートも解約してきた。いろいろ変化が大きすぎて処理が追いついていない感じがする。
今日は片想いのアルバムを仕事終わりに一回帰ってわざわざ自転車でタワレコまで行って買って来た。ひととおり聴いた感じだと前の「片想インダハウス」のときの衝撃にはかなわない感じがするんだけど、「V.I.P.」はダントツに好きだ。
ボーカルの片岡シンと、あとMC.sirafuなのかな、やたら高い素っ頓狂な声のコーラスを聴くと、「ああ片想いだ…」ってなる。すごく間抜けな感じがするけど芯が通ってるというか、そうアイス食べながらコーヒー飲むとか、酒飲みながらタバコ吸うとか、そういう両端に振り切った気持ち良さに近いものを感じて、気持ちがいい。
片想い、また京都に来ないかな。