この半月のこと
この半月でいろいろなことがあった。
いちど記事を書きかけて消したのだけれど、思いついたことを書こうと思う。
友人の結婚式。
親族を中心に開かれた会に呼んでもらった。開催場所は自宅、業者とかは一切挟まず、各々が食べたいものを持ち寄る形の結婚式は新鮮で、「縄文時代とかはみんなこうしていたはずだ」と言った人がいたけれど本当にそうだと思った。ちなみに翌週に同じ場所で友人を招いて開かれたパーティがあって、そこでは飲み食いし過ぎて2日後くらいまで食欲が戻らなくて辛かった。
くるりのコンサート。
ウイーンのオーケストラと組んで演奏される『NOW AND 弦』に行ってきた。『Philharmonic or die』を擦り切れるほど(擦り切れないけど)聴いていたので楽しみにしていた。終演後、しばらく言語感覚が麻痺して「すごい」しか言えなくなっていて、本当に素晴らしいコンサートだった。一緒に観に行った人と会えるのが楽しみだったというのもあるけれど、東京まで行って良かった。あと今回は長距離バスの昼の便を使ったけれど案外快適だった。wi-fiも電源も使えてすごい。
…と、いろいろあったことをもう少し書こうと思ったけれど思ったほど書いていて楽しくないのでこのあたりでやめておく。
最近、何か書こうという気があまり起こらないのだけれど、とりあえずここまで書いたので置いておきます。
茄子とコーヒー
久しぶりに書く気になった。
さっきまで西の空に出ていた半月がつい5分前は少し赤みがかって、今ではもう雲に隠れてしまった。窓から見える川の向こう岸にあるホテルの客室の明かりも少しずつ消えてきて、というかカーテンに隠れてきて、夜なんだなと思う。
今日は劇団ブルーエゴナクの公演『ラッパー』を観に行って、カレーうどんを食べて昼寝して、ちょっと買い物に出て人と会ってなすカレーをつくってワインを飲んでコーヒーを挽いて飲んでわりといい気分でいる。『ラッパー』については感想をまた書くかもしれない。
昨日はオムライスを作ろうとしてフライパンを触ってしまって手を火傷して、氷で冷やしている間に40代の人が書いてるブログを読みあさっていた。読んでいるうちに自分の仕事のことを考え出してしまって、ああ今だからこの感じでやれているだけで、40代になってもこんな感じでふらふらしていたら行き倒れてしまうんじゃないかみたいな気分にもなっていた。
けれど今はそういう感じは特になくて、もうなんだか「なるようになる」という気分のほうが前に出てきている。『ラッパー』にも出てきたいわゆる「臭い」フレーズだけどまあ、なんとかなるのではないかという気もする。
「受験に失敗したら人生棒にふる」とか、この「受験」を「就職」と読み替えてもいいし、「30を越えたら転職は厳しい」とか、そういう言い回しは確かにある程度の信憑性があるくらいには世間では筋が通っていて、確かにそうなんだろう。だとして、その「失敗した」とか「30を越えた」人が必ずしも悲惨な感じになっているかと言えば、確かにそういうケースもあるのかもしれないけれど、じゃあ「失敗しなかった」人が例外なく悲惨でない人生を送っているのかというとまあそうとも言い切れないわけで、そう思うともう何でもいいかという気にもなっている。アルコールが入っているからそう思うのかもしれないけれど。
とりあえず、茄子はもう少し火を通したほうが柔らかくなって旨いし自分で挽いたコーヒーは旨いということがわかって今日はそれで十分だなという気がする。
小説と生活
今日からまた休みだ。
高橋源一郎の『一億三千万人のための小説教室』を読んだ。最近何か書きたいという感じがあって、というよりも浮かんだり消えたりしていて、浮かんでいるときにはすごく確かなものとして感じられるけれど消えているときはほんとうに跡形もない。
「自分のことを書きなさい、ただし、ほんの少しだけ、楽しいウソをついて」
この一文にぐっときてしまって、この本に紹介されている本をまた読みたくなって図書館に行った。バクシーシ山下『セックス障害者たち』、石川啄木『ローマ字日記』、坂口安吾『堕落論』、神蔵美子『たまもの』を借りてきて、『たまもの』を読んでいる。
ぐーっと集中して本を読んでいるときは、その本の文体が体に入ってきて、ページから目を離して自分の中に浮かぶ独り言がその本の文体になっていたりする。星野源のエッセイを読んでいるときは星野源のように、神蔵美子の感じはこうして書いているうちに薄れてしまっているけれど、読んだ直後はやっぱりその文体になっている。
ネットで注文していた箒が届いた。仕事帰りに受け取れるように帰り道の途中のコンビニを受け取り場所に指定して、けれど昨日はまだ届いていなくてさっき行ったらなぜかエラーになってヤマトに問い合わせた。結果的にコンビニ側の手違いだったことがわかったけれど、問い合わせ中微妙に自宅から離れたコンビニを指定してしまったがために変な空き時間ができてしまい、周辺をうろついていた。鴨川沿いの街並みがどうなっているかを見るのが楽しいので歩いていると、前の仕事で関わりのあった団体のオフィスが移転しているのを見つけて、ああここに移ったのかと思う。せっかく今住んでいるエリア近くには知り合いがない、と思っていたらきっとあの人もあの人も出入りしているんだろうなと、知ってはいるけれどめったに思い出さない人の顔を思い出す。それは嫌な感じではないのだけれど、喜んでそこを訪問しようとか、ひょっとしたら会えるのかもなという期待とは違っている。
そうしているうちになんとか箒を受け取れて、実家から送ってもらった扇風機も届いて、少し生活環境が整った感がある。箒だったり扇風機だったりは生活空間を過度に豊かにするというよりも最低限の部分で便利にするために必要なものだったというのが、届いて使ってみるととてもよくわかる。「インテリアに凝る」みたいな欲が働き出すとそういうのとはまた違う感じの方向に行くので、それも悪くないのだけれどまた別のものだということがよくわかる。
日が暮れてから、部屋で本を読むための灯りが必要だ。今のままだと少し暗くて、読もうという気があと一寸のところで阻まれる感じがある。電球一個つくだけで、この「一寸」はなくなるだろうと思うから、これは用意しようと思う。
あとはこれまで常温でバターケースに入れていたバターに黴が生えてしまっていることに昨日気がついて、これからは冷蔵庫に入れることにした。常温でもこれまで問題なかったし、知り合いが「常温で一年いけた」と言っていたのだけれどたぶん保管場所が悪かったのだと思う。
ゴミ箱を持ってしまうと移動する時かさばるのでなるべく置きたくなくて、酒屋でビールケースをもらってきてそこに袋をかけることにした。玄関周りが少しすっきりして良い感じだ。「移動する時」というのは次の引越しをイメージした時のことで、今の場所からすぐに引っ越すつもりはないのだけれど、今回の引越しで軽自動車満杯に荷物を積むことになってしまったので、できるだけかさが増えないようにしたいなとは思っている。
この休みの期間中、とりあえず決まっているのは明後日大学時代の友人と会うことくらいだ。10月に一緒にライブに行くことになって、この日は僕の持っているブルーレイディスクを貸すことになっている。
『たまもの』を読みながら、こうして本に篭っていたい、と思う。本の中に入り込んで、その文体に浸って、自分の中に言葉が出てくることを楽しめるような気がしている。生活環境がガラッと変わって、物を揃えたりしているとこういう感じに気がつくまでに時間がかかるのだな、ということがよくわかる。こういう感じになるくらいには、生活環境を整えないと始まらないのだなとも思う。
出勤の日
夫婦と両親
「はじめまして」
30歳前後の女性が席から立ち上がった。
彼女はたった今喫茶店に入ってきた還暦くらいの男女の方を向いておじぎしている。2人の後ろには、同じく30歳前後の男性がいて、4人は席についた。女性が自分の名前を名乗っている。
一瞬、これはどんな状況だろうかと思ったのだけれど、きっと、確証はないけれどきっと30歳前後の2人は結婚前かなにかで、還暦の男女2人は男性の両親なのだろうと思う。ほかにこの年齢差の男女4人組で、若い女性が還暦の2人にだけ初対面の挨拶をする状況というのが思いつかない。
女性はとても緊張した様子で、ずっと手を膝の上に置いて背筋を伸ばしている。両親の方は比較的リラックスした様子で、父親が特に嬉しそうだ。父親は白髪で、けれど短パンとポロシャツを着た若々しい印象で、貫禄と親しみやすさのようなものがにじみ出ている感じだ。母親のほうはフィリピン系なのか、東南アジアの雰囲気のする顔立ちで、あまり話さないけれどやはり嬉しそうだ。男性のほうは席の角度から表情は見えない。けれどこの状況なら彼だけがその場にいる全員と顔見知りで、比較的落ち着いている方なのだろう。
「結婚相手の両親に初めて会う妻」と「息子の結婚相手に初めて会う両親」の瞬間の表情というのを初めて見た。
女性の緊張しているけれど嬉しそうな雰囲気と、両親のおだやかでやっぱり嬉しそうな雰囲気が、なんだかすごくよくて、見ていてじーんときてしまった。うらやましいな、とも思った。
同じ世代の友人たちはどんどん結婚していて、もちろん結婚していない人もいるのだけれど「結婚した」という情報はいろんなルートから耳に入ってくるから、その都度「ああ結婚したのか」と思う。その「ああ」という感じが重なれば重なるほど「みんなどんどん結婚していく」という感じが強まる。Facebookのタイムラインには、最近結婚に加えて子どもと一緒に写った写真をアップする友人が増えてきた。
「うらやましいな」とも思う一方で、結婚していった友人知人の中には早々に離婚した夫婦もいたり、Twitterのつぶやきが明らかに家庭生活がしんどそうだったりしている人もいて、現実にはいろいろあんだよな、と思う。
友人の中のある一人から、結婚した最終的な決め手として「親に喜んでほしかった」というのがあったと聞いた。それを聞いたときはまじかよ、と思ったのだけれど本当らしい。本当にこの人でいいのだろうか、と迷っていたのだけれど、最終的に決め手になったのは親のことらしい。
その話を聞いたときはぜんぜんわからなかったけど、今日見かけた夫婦の両親の顔を見ていたら、確かにそういうのもあり得るのかもしれないな、と思った。実際に自分がそれを決め手にするとは思えないけれど、あの4人の空間は独特だったし、ほかではなかなか見られないものだよな、と思う。
引っ越してみて
今日の夜
今日はいろいろと節目というか楽しかった。
わりとおっきい仕事がひと段落して、職場の人とメキシコ料理食べて、そのあとバーを二軒はしごしていま帰ってきて、別にそのまま寝たらいいのにわざわざこれを書いている。
バーに行けたのがよかったな。一緒に行った同僚の人にいろいろ教えてもらって、葉巻のことや音楽のこと、京都のカルチャーのこと、楽しいことはたくさんあって、それを幾つになっても楽しめること、それが素敵でうらやましくて、嬉しくなって結局いまの時間まで街を闊歩していた。
2年3年前に自分がこんな時間を過ごしていることは思いもよらなくて、でも2年や3年前に体験したことや考えたことが自分の意思とは別のところでどうしてもつながっていたりしていて、それをすごく実感するような時間だった。
「京都に30年も住んでたらね、いろいろありますよ」というのは今日いろいろ連れて行ってくれた同僚の人の言葉で、最近年を重ねるというのはいいことなのかもしれないみたいなことをぼんやりと考えていたタイミングでもあったので、とてもよかった。
30年弱しか生きてないけれど、最近年を重ねることの楽しみみたいなのはあるかもしれないと思っていて、具体的に書くのが面倒だなという気分もあるので細かくは書かないけれど確かにそういう感じがあって、今日の夜はそれを象徴するような夜だった。
半分酔っ払って書いているようなこんな文章を誰が面白がって読むんだろうという気もしているけれど、こういうところで通じる人がいるんじゃないかという微かな実感みたいなものがあるから書いているという事情もあって、別にものすごくたくさんの人に共感してもらうための文章を書いているのではなく、自分が感じた些細なことを書くことで共鳴したりする人がほんの数人でもいるかもしれないということが動機になって書いている部分というのがある。
日本語は支離滅裂で読みやすい文章なんてあったもんじゃないけれど、この場の勢いみたいなもので書き残したものがあとで読み返した時に「いまのこの感じ」を真空パックするようなことになるんじゃないかという希望というか期待がある。
コンビニで買ったカフェオレもなくなったし、歯を磨いて寝ることにしようと思います。