jibun09の日記

長々とした日記を書いています

12月9日

酔っている時は日記とか書かないほうがいい。そう思うのだけれど、なんか書きたいなと思っているので書く。

今日は午前中に洗濯と掃除を済ませて、友人の結婚祝いの準備をして、間違えて踏んづけてひん曲がってしまった眼鏡を直して、残り物のカレーでカレーうどんをして、近所の銭湯に入ってから大阪にでてきて友人と飲んでいた。

友人はこの秋に再婚した。彼は数年付き合った末に結婚した相手と結婚後数ヶ月で離婚して、めでたく次のパートナーを見つけて、このあいだ僕も結婚式に行ってきた。最初の奥さんとの結婚までのいきさつ、別れるまでの流れとか、気になってたことをあれこれ根掘り葉掘りして、自分の近況も話したりして、いい気分で電車に乗って帰った。最寄駅は終点なのだけど、爆睡していて到着に気づかず、車掌さんに起こされてしまった。千鳥足で帰ってきて、冬の冷気に完全に冷え切って湿気を含んでしまった洗濯物を取り込んで、白湯を飲みながらこれを書いている。

この間、給与の交渉をしてみようと思うという趣旨の日記を書いたのだけれど、その後面談でその意向を伝えて今は結果待ちだ。どうなるかはわからないし、まあ様子を見てみようと思う。

なんか数日前に日記に書こうと思っていたことがあったような気がするのだけれど、もう忘れてしまった。なんだか最近日が経つのが早い。もう気づけば年末で、1ヶ月後は平成30年で、あと数ヶ月したら年度が変わって、何年か先には平成が終わっている。元号なんて呼び方だけだという気もするけれど、やっぱり大きいことだよなと思う。ぎりぎり昭和生まれで、平成に変わった時のことはよく覚えていないから、物心ついて以降は初めて元号が変わることになる。平成の次はなんなんだろう。林先生はテレビで「Rが来ると思う」とか言ってたけど、どうなんだろうか。そして数十年たったらその元号にも慣れて、「平成」という響きも古臭く感じられたりする時期も来るんだろうか。「昭和レトロ」みたいなニュアンスで「平成レトロ」とか言われたりするんだろうか。その頃にも、無理なくある程度楽しくやっていれたらいいなと思う。

12月4日

僕は月収が低い。

具体的にいくらかとかは書かないけど、年齢とかからするとずいぶん低いほうだと思う。それでも前職から比べると上がったほうで、今の仕事につく時はこんなにもらえるのかと驚いた。この給与額で2年と少しやってきたわけだけれど、給与交渉したら上がるんだろうかみたいな気持ちが最近出てきて、次の面談の機会には交渉しようと思っていた。

この間とある用件で職場の同僚の人と話す機会があって、その人とはわりとフランクに話せる感じだったし話の流れ上給与額の話になったのだけれど、さすがにそれは買い叩かれすぎだと驚かれてしまった。僕は確かに今の給与に満足しているわけではないし、今年の面談では上がるよう交渉しようと思っていた。けれど他の人に「さすがにその額では…」みたいな言われ方をするとなんか惨めな気持ちになる。そこまでお金は貯まらないけれどとりあえず問題なく暮らせていて、まあ欲を言えば上がったらいいな、いやこの水準の仕事求められるならもっと上げてもらわないとな、という感じだったのが急になんだか「僕は貧しいのか…」みたいな気分になる。

「お金はあればあるほどいい」というのはつまり、「あってもあってもきりがない」とも言える。最近Twitterとかで年収云百万以上の人は税金が高くなる云々といった話題が流れてきていたけれど、自分にはまあ程遠い話だなと思った。とりあえず、「お金は百万までは稼げば稼ぐほどよいが、それ以上は稼いでも変わらない」と言えるんだろうか。

ちょっと前はお金で測れないもの、貨幣経済の外にあるものごとの価値にすごく惹かれていた気がする。けどその時期は実家暮らしで生活費を一銭も入れていなくて、奨学金の返済も残っていて前職時代に貯めたお金でライブとか行きまくっていた。めちゃめちゃお金必要だったし使ってんじゃん、と昔の自分に突っ込みたくなる。

このあいだphaさんが出てた「ニッポンのジレンマ」で「コミュニティが職場だけに偏るときつい」という話があって、これは本当にそうだなと思った。僕は前職、なんかプライベートもひっくるめてほとんど仕事に投入していた感じがあってバランスを崩した。なのでそこを辞めてからはその反動で色々な人と知り合ったし、生きて行くうえではお金も稼ぎつつ、そういう労働の現場以外で人とつながったりしていたら、なんとか生きていけるのではないかという気もしている。

給料上がったらいいなあ。上がっても家賃の高い家に引っ越したりするつもりもないし、生活水準をすごく上げたいみたいなことも思わないので、とりあえず貯めたり、ちょっと欲しいものを買えることが増えたりするといいなと思う。

11月17日・大橋裕之×柴田聡子トーク&ミニLIVE

昨日これに行ってきた。

shibatasatoko.com

大橋裕之は前から好きで、そこに柴田聡子の組み合わせなんて行くしかないと思って、仕事を切り上げて大阪に行った。

イベントの様子とかやった曲とかを書こうかと思ったけどどうもだめだ、書いてておもしろくないのでやめた。ライブはとてもよかった。柴田さんがちょっと緊張していたのか何回も間違えたりしていて、やっぱりワンマンの時のホーム感とは違うのかもなあと思った。ワンマンライブだとあの柴田さんのおどおどした感じの挨拶とか、挙動不審な感じをファンは微笑ましく見守るみたいな空気感があったのだけれど、この日はちょっとアウェイ感があったような気もする。でも相変わらず柴田さんの曲はとても良くて、『大作戦』のこのラインとか

スタンドには、応援団いる、野次馬たちいる、好きな人がいる、こわい人がいる 

『ニューポニーテール』のこのラインとか

さんご・ダイヤモンド・パール・プラチナ

リフレインがやっぱりとてもよかった。

トークイベントは司会の方の慣れない感じがけっこう出ていて間延び感があったのだけれど、柴田さんと大橋さんの間で音楽とか漫画とは直接関係ない話題にどんどん展開していく感じが面白かった。大橋さんは通っていた高校最後のモールス信号を習った学年だとか、モールス信号のリスニング試験があったとか。あと学校にはヤンキーとアホしかいなかったらしく、どうりで漫画にヤンキーがあんなに出てくるのかという発見もした。

小さいイベントだろうしなと思って、『大橋裕之の1P』と『愛の休日』とサインペンを持って行ったのでサインしてもらった。サインというのはいつもちょっと躊躇するというか「サインをもらうほどファンじゃないかもしれない…」と急に弱気になったり「知り合いづてとかじゃないとサインとかおこがましいのでは…」とか思って物怖じしてしまう。けれど 大橋さんは快く引き受けてくれて嬉しかった。「なんかリクエストありますか」と聞かれて、似顔絵を描いてほしいと思ったけど遠慮して言えず、『遠浅の部屋』の主人公を描いてもらった。

目の前で白紙のページの上に線が描かれて世界が生まれる過程を見ているようで感動してしまった。で、やっぱり目から描き始めるんだなと思った。あとでTwitter見たら似顔絵らしきものを描いてもらっている人がいて、やっぱり似顔絵をリクエストすればよかった。フェスとかで似顔絵屋さんをやっているようなので、今度は描いてもらいたいなと思う。

 結局イベントの様子を書いたな。あと原画展もよかった。やっぱり原画は作家の息づかいみたいなものが感じられていい。行ってよかったな、という感想でした。

11月10日

特定の1人の人間と親しくなって、ずっと一緒に暮らすって一体どういうことなんだろうか。

僕はどこかで人を冷めた目で見ているところがある。外向きはわりと人当たりのいいほうかも知れないけれど、たとえば外で昔の同級生とか同僚とかの知り合いに会ってもよほどの関係性でない限り自分から声はかけない。

1人でいて寂しいと感じることもあるし人と話したいなと思うことはあるけれど、どんどん人と関わっていく知り合いを見ていてそこまでナチュラルに人との交流を喜べないよなという感覚がある。

そりゃあとある人を素敵だなと思ったりもっと話したいと思ったりする瞬間はもちろんあるけれど、それがずっと続くかどうかは分からない。結婚とかはそれを「ずっと続くんです」と言い切る契約で儀式のような気がする、という感覚がどうしてもある。

そういう感覚を越えてまで一緒にいようと思えるような相手ではないのかもしれないし、ひょっとしたら僕はそういう感覚を持つことはできないのかもしれない。

いや、世間の人は案外そんな感覚を持っているわけでもなくて、いろんな事情とかタイミングが重なって結婚して、いろんな事情やタイミングが重なってとりあえず続けているだけなのかもしれない。

他人は他人なのでやっぱり何かしらイライラしたり、足りないところが目についたりして、その度に「この人と今後もいるのか…」と考えるとちょっとひるむ。

けれど、イライラするとか足りないところが目につくというのはその瞬間瞬間のことであって、つぎの一緒にはどう映っているかは分からない。先の自分にどう見えるかを無理やり先読みしようとしても仕方がなくて、とりあえず今はイライラしている、目についているということを感じることしかできないし、それを取り扱うしかないという感じがする。

10月22日

気づいたら2ヶ月くらいブログを更新していなかった。この間に色々なことがあって、1つ年をとって30歳になったりいろいろと列挙しようかと思ったけどちょっとためらっている。たぶん大きいのはいわゆる恋人という人ができたからで、こういうことをこのブログに書こうと思っていなかったからだと思う。

いわゆる、と書いたのは付き合うとか恋人同士になるというのはどういうことか、ということが自分でもよくわかっていないからで、けれどそういう関係性の人ができたことで時間の使い方がだいぶ変わった感じがしている。前までは予定がそうそう埋まることはなかったし、基本的に一人で大抵のことをやって、たまに友人と会ったりイベントに行ったりするくらいの感じだった。それが恋人と予定を合わせるようになったし、食事に行く回数も増えたし、自分一人だと行かなかっただろうなという場所に行ったりする。こういうことって、やっぱりちょっと時間を置いたり客観視できるようにならないと書けない。今なんとなく、ふと思い立って書こうという感じになった。

今日は台風で、一日家にいるぞと意気込んでいた。なので昨日のうちに食料品とかの買い物は済ませておいて、今日は午前中に投票に行ったついでにスーパーに寄った以外は外に出ていない。読もうとして読めていない本が何冊かあって、だらだらと過ごしながらそのうちの一冊を読んでいた。

Coyote No.60 SAUNA for Beginners

Coyote No.60 SAUNA for Beginners

 

Coyoteのサウナ特集の回。

もう何年も特にライブの予定とかがなければ旅行に行こうという動機もなかったし、ましてや海外に行こうなんてほとんど考えなかったのだけど、一気にフィンランドに行きたくなってしまった。街のいたるところにサウナがあるなんて至高だ。航空券、調べたら片道10万くらいらしい。もちろん気軽に手が出る金額ではないけど、いっぺん行ってみたい。

特にやりたいことが強くあるタイプではないのだけど、サウナは日常の延長の半非日常という感じがして好きだ。ライブとかだと完全に非日常に身を投じる感じがあるのだけど、銭湯とかサウナはあくまで生活としての「入浴」の拡大版だし、けれどちょっといつもと違う気分になれるからいい。

長崎の古い温泉街に移住した友人から「そんなに好きならこっちでサウナやればいいのに」と言われた。彼は最近若手が移住して盛り上がっているその土地に僕を連れて来たいようで、会うたびに勧められるのだけど、そういう移住というのはたぶん自分なりの武器というか、特殊能力があって成立するんじゃないかと思っている。カフェをやるつもりだとか、デザイナーをやっているだとか、何かしらの小商い的な実績や志向がないと難しいんではないかと思っている。

サウナだったらやってみたいな、という漠然とした気持ちと、Coyoteに載っていた移動式サウナとかテントサウナが素敵すぎてできるんちゃうかという気持ちになって一人で静かに盛り上がってしまった。けれどまあ、こういう話はそういうおっきなイメージを持っても僕の場合はどうにもならないので、日々粛々と気が向いたときに近所の銭湯に出かけることしかできないなと思う。とりあえず夕飯でもつくって、選挙速報でもだらだら見ながら酒でも飲もうかなと思う。

8月20日

夏休みが終わる。

うちの職場は夏休みがちょっと長めで、休みに入る前「長いと思ってても終わることには短いと思ってるんだろう」みたいなことをぼやいていたらその通りになってしまった。珍しく職場の人と飲みに行って女性の飲み会テンションに合わせて(自分以外全員女性)話をしてみたり、友人となにかものを書くという合宿をやって詩を書いてみたり、墓参りに行った帰りに実家に寄ってシン・ゴジラのブルーレイをみたり、親戚の家でカレーをつくったり、CD借りたり花火を見に行ったりしていた。

今日も本当は出かける予定だったのだけれど、出発30分前くらいになって急に汗が出てきて動悸もしてきたので熱中症ぽいと思って寝ていた。まあ明日から出勤だと思うと、ちょっと今日くらいはゆっくりするのもいいかなと思っている。

この間大文字の送り火をマンションの屋上でぼーっと眺めていたら同じマンションの住人が友達を引き連れてやってきたので、ビールをもらったりお菓子を分けたりしながらちょっと話した。ここに住み始めてからあまりほかの住人の存在というのを感じることがなかったので、ちょっと嬉しかった。

最近はPUNPEEのラップが聞きたくてsoundcloudとかYouTubeでミックスばかり聴いている。ここに入っているいくつかの曲の入ったアルバムを借りてきた。来月末には新譜が出るので楽しみだなーと思う。

 

soundcloud.com

ふだんあまりドラマは見ないのだけど、『過保護のカホコ』は録画しながらちょっとずつ見ている。設定も演出もちょっとコミカル過ぎるし過剰な感じがするけど、そういうものとして見たら楽しいし、なにより高畑充希がかわいい。「あの人を見たいからドラマを見る」みたいな感覚ってこういう感じなんだろうなと思う。

主題歌が星野源なのだけど、Perfumeとの対バンのチケットがことごとく外れる。もう当たる気がしなので凹むのだけど、まあ行けたらラッキーくらいに思っておこうか。ぜったい恋ダンス一緒に踊るだろうし、Perfumeの曲弾き語りとかするんだろうなー。 

めんどくさいけどクリーニングに出していたジャケットを取りに行って、晩ごはんどうしようかな。もうレトルトのカレーでもいいかという気もしてたけど、もうちょっとしたら考えようかな。

7月29日・立誠シネマ・『この世界の片隅に』

今日はいつもよりゆっくり目に起きた。宅急便を受け取って、洗濯をして、朝ごはんを食べて。やらないといけないこと、やりたいことが色々ある。自転車の点検、長野までのチケット購入、サランラップが切れている、人に電話しないといけない、近所のミニシアターが明日で閉館なので見に行きたい。夜は下鴨神社の祭りに友人と行くかもしれない。あとハワイアナスビーサンを買いたい。そんなこんなでやることはたくさんあるけれど、どの順番で何をしよう、全部できるんだろうか、そんなことを思いながらそうめんを食べる。

とりあえず電話の用事を済ませて、元・立誠小学校の「立誠シネマ」に向かう。廃校になった小学校の一部を改装したミニシアターで、何度か足を運んだのだけれどこの夏で閉館になる。ここでは『ある精肉店のはなし』『青春100キロ』『ハッピーアワー』『この世界の片隅に』あたりを見た。僕は特別映画ファンというわけでもなくて、けど映画を見る前、見終わったあとにこの雰囲気のある校舎を潜り抜けるのがなんだか好きだった。

risseicinema.com

椅子は座椅子だし音響は必ずしもよくないのだけれど、それを補って余りあるくらいの味があった。とはいえ、今日やる映画を実際に見るかどうかは決めていなかった。「せっかく近くに住んでるんだし、最後くらい見ておこうかな」くらいの感じで向かったのだけれど、結局通算2回目の『この世界の片隅に』を見ることにした。

座席は満杯、ほぼほぼ立ち見席のような場所できゅうくつになりながら見た。やっぱり、のんの声がいい。理由がわからないけど、「うちはぼーっとしとるけえ」の一言でなんだか泣けてしまう。『あまちゃん』ファンだったことを差し引いても、どうしようもなく切ない感じの気持ちになるのはなんなのだろう。誰か解明してほしい。


映画『この世界の片隅に』予告編

映画の感想とか、書こうと思ったけれどなんだか面倒な気がしている。これはきっと酒を飲んでいるからかもしれない。映画を見終わって、ビーサンを探して街を徘徊したけれど目当てのものはなくて、暑さに耐えかねて帰ってきて、道すがら買ってきたハッシュドポテトをつまみながら金麦を飲んでいる。ハッシュドポテトを買ったスーパーで買えば数十円安かったであろう金麦、スーパーを過ぎてから飲みたいと思い立ったのでコンビニで買った。スーパーで買えばよかったものを、と思うけれどビール(的飲料)は飲みたいときに買うに限る。数十円を笑う者は数十円に泣くのかもしれない。けれど今飲みたいから買う。それがベストだ。

『この世界の〜』を見ていてうわーと思うのは、「モガ」の描写だ。なぜか戦前というと貧しくてモノクロのイメージがつきまとうけど、映画で描かれている戦前の風景の一部はもっとカラフルで華やかで、おしゃれして喫茶店に行ったりして、今と大して変わらないんじゃないかと思ったりする。平成の時代から過去を見るとあの頃は「戦前」に区分されてしまうのだけれど当時の「モガ」からしたら自分たちは「戦前」に生きているなんて思ってもいないわけで、僕たちが勝手に時代に名前をつけただけのことだ。

そう思うと、今こうやって部屋でクーラーをつけて金麦片手にノートPCでブログを書きながらSpotifyコトリンゴを聴いている風景だって、数十年後の人間からしたらイメージもしにくいのかもしれない。未来人が僕らをどんな時代の人間と見なすかはわからないけれど、今こうして過ごしていることは、今しか起こっていないことなのであって、だからこうしたなんでもないことを書いておきたくなるなあと思う。

Twitterをのぞけばフジロックが楽しそうだなとか、Facebookをのぞけばやれ誰が結婚したとか、LINEではあの子から返事がこないなとか、テレビにつないだHDDにはドキュメント24hが溜まっているなとか、そういうことを考えながら今日も生きている。明日は、この間買ったアロハを洗濯したから着ようかなーと思う。